発展に寄与された方々
アメリカに次ぐライカ市場としての日本だが、
今日の発展のために活躍された方々がいらっしゃる。
今回は日本でのライカ普及に貢献された方々を紹介したい
1、 パウルシュミット
言わずもがな、シュミット商店(戦前の社名)の創業者である。
何社かの日本総代理店の看板を上げた中に、顕微鏡のライツ社があり、
ライカカメラの販売をすることとなった。
昭和12年シュミット商店の上海支店へ出張中に、亡くなられた。
彼の箱根の別荘は、箱根駅伝のスタート地になっている。
2、北野邦雄
月刊光画という雑誌を戦前から発行して、今でいうメカニズムライター的な事をされている。
M3が発表された、1954年のフォトキナでは、現地から5月号発売に間に合うように、資料を入手し、航空便で原稿を送ったという。
今なら、ネットとメールで即日入稿の世界だ。
当時の現地の雑誌には、ドイツ人より、上手にドイツ語を話す日本人と紹介されたという話がある。
東京外語大を卒業され、陸軍軍医学校等でドイツ語の教師をなさっていたので、当たり前である。
3、木村伊兵衛
ライカで写真を撮る人間にとって、彼の名前を知らなければ、もぐりと言われてもしょうがない。
東京の日暮里で写真館をしていたが、ツェッぺリン飛行船のニュース映画を見てライカを買った。
それまでは、コンタックスを使っていたという話を聞いたことがあるが、わからない。
4、佐和九郎
この名前を知っていたら、ビョーキである。
アサヒカメラに彼が書いたライカとコンタックスの比較記事が、コンタックス寄りだったという。
そのため、ライカ愛好者からの非難を受けて、シュミット商店が出したのが、降りかかる火の粉は払わねばならないというパンフレットになる。
ライカコンタックス戦争は日本だけで起こったことで、本国では、起こらなかった。
その後、戦火の拡大に伴い、民需向けは、両社ともに輸入禁止となる。
佐和九郎はペンネームで、銀座にあった黒澤タイプライターの主人である。
彼は、戦後もカメラ雑誌上で活躍した。
参考リンク→wikipedia:降り懸かる火の粉は拂はねばならぬ
5、明石正巳と井上鐘
明石はシュミットの写真部長として、井上はパウルシュミット亡き後社長として、活躍をされた。
戦前のシュミット商店の出したパンフレットは、ほとんど井上が文章を書いたとされる。
明石がその後を引き継いだ。明石は、シュミット解散後、フォトハウスアカシを開いた。
シュミットはドイツワインも扱い、現在のドイツワイン輸入業者は、たどっていくと、シュミットのワイン部に繋がるとさえ言われる。
他にも、たくさんの先人がいらっしゃる。機会を見つけてご紹介したい。
(敬称略)
写真工業出版 ライカの歴史より借用