今回は、35mmフィルムカメラの歴史についてお話したいと思います。
今、我々が目にしている35mmフィルムカメラの原型が誕生したのは1913年にエルンスト・ライツ社の開発技術者のオスカー・バルナック氏が35mmフイルムを使用するカメラ試作機を設計したのが、始まりと言われています。
もちろん、映像の世界では既にエジソンのキネマトグラフシステム、リュミエール兄弟のシネマトグラフとロールフイルムは19世紀末に実用化されていましたので、バルナック以前にもカメラの小型化に取り組んだ会社、人物、実際作られたカメラは存在したのですが、後世の35mmフイルムカメラに結び付いたのはバルナックの生み出したカメラだけでした。
エルンスト・ライツ社の映像関係機器の開発研究をしていたオスカー・バルナック氏は、仕事柄35mmシネフィルム(映画用フイルム)とかかわりが深く、このフィルムを使ったスチルカメラの製作を思い立ちました。
また、その背景にはバルナック氏自身、生来体が弱く、当時のカメラ含めた撮影機材が大型で重く、携行性と画質を兼ね備えたカメラを作りたいという思いもあったそうです。
そしていろいろな実験、試作、そしてレンズ設計ではマックス・ベレーク博士(後のエルマー等ライカ用レンズ設計の中心的人物)の協力もあり、試行錯誤をしながら完成したのが、35mmシネマフィルム2コマ分の画面サイズ24×36mmの「バルナックのカメラ」後世で「ウル・ライカ」と呼ばれるカメラ。
今にも共通する35mmカメラの基本構造
この時点で、後世の35mmカメラの基本構造が組み込まれました。
例を挙げると、
- 画面サイズ24×36mmのフォーマット、
- スプロケットによるフィルム巻き上げとシャッター巻き上げの連動(二重露出防止)
- ファインダーなどを取り付けるアクセサリーシュー
といった項目です。
その後、「バルナックのカメラ」開発以来改良研究を続けていたオスカー・バルナックら開発陣は、第一次世界大戦後の1923年、二代目社長のエルンスト・ライツ二世より製品版試作機31台、後世「ヌル・ライカ」と呼ばれるカメラの製造が命令されました。
その背景にはドイツの第一次世界大戦敗戦による多額の戦後賠償金に端を発するハイパーインフレからレンテンマルクを挟んでのライヒスマルクへの通貨切り替えで奇跡的なインフレ抑制に成功するも、ドイツ経済の心臓部であったルール地方占領(戦後賠償金が払えなかった為フランス、オランダに占領されてしまった)後に発生した経済不況の中、ライツ社の「失業者を出さない」という経営方針から、何とか売れるものを作って雇用者を守ろうという事情も大きかったそうです。
そして、1925年の春この時点まで「バルナックのカメラ」と呼ばれていたカメラがライプチヒの見本市に製品版として出品されるのに合わせて「ライツ」の「カメラ」の語呂合わせと語感の良さから「ライカ」と命名されてデビュー(A型1925年-1931年)と同時に販売用の500台が既に用意されているという念の入れよう。
その後
B型(1926年-1941年)
A型で搭載出来なかったスローシャッターを搭載する為、レンズシャッター(コンパー)を搭載
C型(1930年-1933年)
A型では叶わなかったレンズ交換方式を実現、初期はレンズとカメラのフランジバック調整が必要だったが、後にフランジバックを統一し互換性を持たせる。Lマウントの誕生
II(D)型(1932年-1948年)
ここで距離計連動機構、組み込みファインダ等の特許を押さえ、ライカ不動の地位を固める
スタンダ-ド(E)型(1932年-1950年)
III(F)型(1933年-1939年)
とつづいていきます。
そんな中、日本の35mmカメラをめぐる状況はどうだったのでしょうか?
1933年(昭和8年 ライカではIII型を発売中)、日本では精機光学研究所の吉田五郎氏(後のキヤノン)によって35mm連動距離計フォーカルプレーンカメラ、カンノン(KWANON)が試作機として作られました。
実際商品化されたのは、少し後1936年2月(昭和11年)に日本光学よりニッコールレンズ、連動距離計の供給と、ライカの特許を避けた飛び出し式組み込みファインダ(通称びっくり箱)を組み込んだ、標準型「ハンザキヤノン」の誕生と繋がって行きました(その間に吉田氏は精機を離れてしまっておられましたが・・・)。
あ、この「HANZA」は写真材料卸売大手の近江屋写真用品㈱の商標名、独占販売権を持っていた近江屋写真用品㈱提案によりカンノン→キヤノン+近江屋写真用品㈱の商標名HANZA表示になったと言われておりますが、キヤノンカメラミュージアム内の記述では「キヤノンの名の由来は当時精機の経営を担っていた吉田氏の義弟、内田三郎氏によるもの。ハンザ名は販売総代理店であった近江屋写真用品(株)の商標名を、契約上刻印したもの」とされており、今となってはどちらが正しいのかはっきりと分からないそうです・・・。
これ以外にも、このカンノンから標準型までの精機光学研究所、黎明期に関わられた方には現キヤノン会長御手洗 冨士夫氏の叔父にあたる御手洗 毅氏や、日本光学の技師の方々など様々おられて興味深いのですが、話せばキリが無くなりますので今回はここまで。
次回はキヤノンのお話をして参ります。
資料文献 朝日ソノラマ ライカ型カメラ・国産カメラ特集
この時点で、後世の35mmカメラの基本構造が組み込まれました。
例を挙げると、
- 画面サイズ24×36mmのフォーマット、
- スプロケットによるフィルム巻き上げとシャッター巻き上げの連動(二重露出防止)
- ファインダーなどを取り付けるアクセサリーシュー
といった項目です。
その後、「バルナックのカメラ」開発以来改良研究を続けていたオスカー・バルナックら開発陣は、第一次世界大戦後の1923年、二代目社長のエルンスト・ライツ二世より製品版試作機31台、後世「ヌル・ライカ」と呼ばれるカメラの製造が命令されました。
その背景にはドイツの第一次世界大戦敗戦による多額の戦後賠償金に端を発するハイパーインフレからレンテンマルクを挟んでのライヒスマルクへの通貨切り替えで奇跡的なインフレ抑制に成功するも、ドイツ経済の心臓部であったルール地方占領(戦後賠償金が払えなかった為フランス、オランダに占領されてしまった)後に発生した経済不況の中、ライツ社の「失業者を出さない」という経営方針から、何とか売れるものを作って雇用者を守ろうという事情も大きかったそうです。
そして、1925年の春この時点まで「バルナックのカメラ」と呼ばれていたカメラがライプチヒの見本市に製品版として出品されるのに合わせて「ライツ」の「カメラ」の語呂合わせと語感の良さから「ライカ」と命名されてデビュー(A型1925年-1931年)と同時に販売用の500台が既に用意されているという念の入れよう。
その後
B型(1926年-1941年)
A型で搭載出来なかったスローシャッターを搭載する為、レンズシャッター(コンパー)を搭載
C型(1930年-1933年)
A型では叶わなかったレンズ交換方式を実現、初期はレンズとカメラのフランジバック調整が必要だったが、後にフランジバックを統一し互換性を持たせる。Lマウントの誕生
II(D)型(1932年-1948年)
ここで距離計連動機構、組み込みファインダ等の特許を押さえ、ライカ不動の地位を固める
スタンダ-ド(E)型(1932年-1950年)
III(F)型(1933年-1939年)
とつづいていきます。
そんな中、日本の35mmカメラをめぐる状況はどうだったのでしょうか?
1933年(昭和8年 ライカではIII型を発売中)、日本では精機光学研究所の吉田五郎氏(後のキヤノン)によって35mm連動距離計フォーカルプレーンカメラ、カンノン(KWANON)が試作機として作られました。
実際商品化されたのは、少し後1936年2月(昭和11年)に日本光学よりニッコールレンズ、連動距離計の供給と、ライカの特許を避けた飛び出し式組み込みファインダ(通称びっくり箱)を組み込んだ、標準型「ハンザキヤノン」の誕生と繋がって行きました(その間に吉田氏は精機を離れてしまっておられましたが・・・)。
あ、この「HANZA」は写真材料卸売大手の近江屋写真用品㈱の商標名、独占販売権を持っていた近江屋写真用品㈱提案によりカンノン→キヤノン+近江屋写真用品㈱の商標名HANZA表示になったと言われておりますが、キヤノンカメラミュージアム内の記述では「キヤノンの名の由来は当時精機の経営を担っていた吉田氏の義弟、内田三郎氏によるもの。ハンザ名は販売総代理店であった近江屋写真用品(株)の商標名を、契約上刻印したもの」とされており、今となってはどちらが正しいのかはっきりと分からないそうです・・・。
これ以外にも、このカンノンから標準型までの精機光学研究所、黎明期に関わられた方には現キヤノン会長御手洗 冨士夫氏の叔父にあたる御手洗 毅氏や、日本光学の技師の方々など様々おられて興味深いのですが、話せばキリが無くなりますので今回はここまで。
次回はキヤノンのお話をして参ります。
資料文献 朝日ソノラマ ライカ型カメラ・国産カメラ特集