M型ライカの変遷について
1925年(大正14年)に第1号機が発売(ライカA)されてから1954年にM3が登場するまでの30年間、ライカはA型に新機能を追加することで35ミリフィルムカメラの代名詞になるほどの発展を遂げてきました。その新機能とはレンズ交換、連動距離計、高速・スローシャッターの搭載やダイキャストボディの採用、シンクロ装置内蔵などがあるのですが基本的な構造はほとんど変わってなく外観のデザインもほぼ同じです。
バルナック型ライカ Ⅲf
これは初代のA型、その試作機(Urライカ)の基本設計がいかに優れていたかということですが、同時にライカが次のステップに移行する際の障害にもなっていたと思われます。そして1950年代に入ると他のカメラメーカーの技術的レベルも上がり、ライカも油断ができない状況になってきました。そこでライカは従来のカメラに見切りをつけ新しいカメラを出すことになりました。その1号機が1954年発売のM3です。
M3の改良点というより革新的だった所は
〇バヨネットマウントの採用 スクリューマウントからの変更で迅速かつ確実なレンズ交換を実現
〇距離計(ピント)と構図を1つのファインダーで見れるように改良 バルナック型ではピントと構図を見るファインダーは別々だったのを合体しただけでなく、50,90,135mmのレンズに対応したフレームをレンズを装着するだけで表示。
更に、レンジファインダー機最大の弱点だったパララクス(レンズとファインダーの位置の違いから生じる視差)補正機構を搭載
〇フィルムのレバーによる巻上げ バルナック型はダイヤルだったのをレバー方式に変更。
〇フィルム装填方式の簡易化 底蓋だけでなく背面の裏蓋も開くようになった
〇シャッターダイヤルの改良 従来別々だった高速シャッターダイヤルと低速ダイヤルを1つに統合などがあります。
そして、このM3は「Mシリーズ史上最高」と呼ばれるほどに完成度の高い究極の一台だったのですが、次はその後のモデルを追ってみたいと思います・・・段々と色々な意味でスゴい事になって行きます。
〇M2
一部機種ではM4のクイックローディングスプールを搭載(改造)したM2-Rという機種も存在します。
そして、この光学系や基本設計が今後のMシリーズの標準スタイルとなっていきます。
〇M1
もともとは、定点観測や「距離計を用いない撮影向け」に安価なモデルとして出されたのですが、ファインダセレクタ、セルフタイマー、パララクス補正機構を省略した以外はM2にならった仕様。
とあってM2への純正改造も出来たそうですが・・・改造代払うのと、M1下取りに出してM2購入するのとどっちが安かったのか気になる所です。
これらのM型ライカはフィルムを装填する際、フィルムスプールをカメラから抜き取りフィルムのリーダー部分を巻きつけてからカメラにセットするというバルナック型と同じ旧来の方法でした(前述のM2-Rを除いて)。
〇M4
1967年に発売されたM2の後継機。クイックローディングスプールが採用されスプールを引き出さずフィルム装填が出来るようになりました。また、フィルムカウンターは自動リセット式に、フィルム巻き戻しもクランク式になりました。ファインダーに135ミリのフレーム採用。
M3とM2の良い所どりに新機構の組み合わせと順当な進化系でしたが・・・カメラ市場の中心は欧米から日本に移って来ていました。ニコンFに代表される様にM3登場を見て「これは真っ向勝負を挑んだところで絶対勝ち目は無い・・・ならライカのやっていない事で勝負!」と方向転換した結果、プロはおろか多くの一般庶民にまで先進諸国でじゃんじゃん日本のカメラが売れまくる時代になっており、さすがのライツも「何とかこのMシリーズにも露出計を組めないか」とこのM4の時に試行錯誤したのですが、当時の技術では果たせず露出計内蔵は次に登場したM5まで待たなければなりませんでした。
〇M5
もうこれが登場した時には「露出計は入れて欲しかったけどコレジャナイ」感出まくりで、市場からは総スカンを喰らってしまい何と「一度は生産を終了したM4を再生産」なんてとんでもない事態に。
そして、ここまでが「エルンスト・ライツ社」の事実上最後のカメラにして「暗黒時代の扉」が開かれる時が・・・
〇M4-2
1975年にライカはレンジファインダー式カメラの市場の大幅な縮小から製造を中止、一眼レフ中心の路線を歩むことになりました(ミノルタとの協業はまさにそこを狙っての所)。
これは35ミリカメラの主流が一眼レフに移ったのちもレンジファインダー式カメラにこだわり続けて経営不振に陥ったことによります。
その影響は大きく、ライツ社が創業家のエルンスト・ライツの手を離れスイスの光学メーカー「ウイルド」に移ってしまう「暗黒時代」が到来・・・。
ん?何が暗黒かって・・・ウィルドが欲しかったのは「ライツのカメラ技術じゃなくて光学技術(測量機などの特殊光学機器)」でカメラは正直「やりたいんならまあやったら?でも、正直事業としてもうヤバいから介入して資産整理するヨ」みたいな状態。
工場の機材や倉庫の在庫が整理されてどんどん運び出される。あげくの果てにはそこから運び出されたものがどんどん競売にかけられていく・・・大量にいたカメラ関係の技術者や工員はリストラされる。
創業者エルンスト・ライツ1世が掲げた「大家族主義的」なライツ社の姿はもうどこにもありませんでした。二つの大戦時にあった大混乱や大不況のさ中も「絶対社員は解雇しない!社員はライツの家族だ!」がエルンスト・ライツ社代々経営者の信念で、それを慕ってどんな辛い時も社員はついて行ったのです。
その結果ですが、創業以来脈々と続いていた高度な管理体制はボロボロになり系統だって付番されていた製造番号も混乱し*(アスタリスク付)なる仮番号出荷されてしまう様なかつてのライツでは考えられない程お粗末な品質管理・・・とはいえども、そんなどん底の様な中踏みとどまって「何とかライカの生産を続けよう」とした方々の努力は頭が下がります。ちょっと前置きは長くなりましたが、基本的にはM4をマイナーチェンジして新たに生産した機種。同時発売のワインダーを装着できるようになりました。また生産コストを低く抑えるためにカナダで生産。
〇M4-P
1980に発売されたM4-2の後継機種。28ミリと75ミリのフレームがファインダーに追加。M4-2と同じくカナダで製造。
この機種から、今のライカでも見られる赤バッジが登場。
それでも、まだまだ「暗黒時代は終わらない・・・けれどもこのM4-Pで一筋の光明が」それが次に登場する救世主的カメラ・・・それの母体となったのがこのM4-Pとあっては市場で低い評価されてしまうのが残念!
〇M6
ただ露出計を組み込んだだけでなく、ダイキャストボディーの採用で堅牢性と軽量化にも成功。このダイキャストボディーの技術はR4で採用されたもの、という事は「ミノルタとの協業」がここでも活きる事に。
このM6がライツ社の救世主となり、ボディが売れればレンズも売れるで「暗黒時代から見事に脱出!!」。
特に日本市場でバブル景気時代に「売れに売れまくった」というのも大きかった様ですが・・・それ以上に「ウィルドの子会社として」ではありますが、ライツの技術者や工員たちが独立してカメラ、レンズの生産が出来る様になり「ライカをライツの人々が」取り戻せました。残念ながら、商標面から「エルンスト・ライツ・カメラ」の名は使えませんでしたが「ライカ・カメラ」の名は手に入れられました!!
〇M6TTL
この僅かな外観変更は少しライカユーザーの間から「いかがなものか?」と言われたりもしましたが、最大の変更点はシャッターダイヤルの大型化。
ただ大型化されただけでなく、M6までと「回転方向が逆になった」という所で賛否両論沸き起こりましたが、「スタイル」という点では確かに変わるものの、従来はカメラの上から指でつまんで回す様な操作だったのが、前にダイヤルが軍艦部からはみ出さない程度に張り出した事で「ファインダーを覗いたままでも指でシャッターダイヤル操作が出来る」という「目立たないながらも大きな進化」を遂げたという所では、ライカの本質的な進化が見えて来ました。
〇M7
「機械式がエエ、電池切れたらただの箱はイヤヤ!!」
という声を受けてか、シャッター機構を従来通りの機械式にし、デザインもM6ベース、レバーやノブをライカM3の頃の様な仕様で仕上げたMPも発売されこの流れが今のライカのフイルム機ラインナップにも繋がります。
そしてM型ライカはM8以降、デジタルカメラとなって新たな世界へ継承されていきます。駆け足になりましたが、フイルムMシリーズをふりかえってみました。
絶頂を極め、その絶頂を超えられず転落しそうになるも復活する様は「ライカ」を支えている人々の様々な思いが見える様な思いがしました。今お持ちの方も、これから手にしようかという方も「ライカ」を大事にしてあげてくれると嬉しいです。