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【コラム】カメラ今昔物語 【ライツミノルタ CL&ミノルタCLE 編】

カメラ今昔物語

こんにちは心斎橋本店の たつみ です

先日当コラムを『読みましたよ!』とお客さまが声がけ下さいました

毎回毎回拙い文章ながらこうして激励のお言葉。

非常に嬉しい限りです。。

これからも末永くお付き合い下さいませ (^^;

さて今回は、そのお客さまからのリクエストにお応えしまして

ライツミノルタ CL&ミノルタCLEにまつわるお話です

”ライツのカメラ”=『ライカ』

写真ファンでもまたそうでなくても誰しも耳にした事のある世界的ブランド

ライカ(LEICA)

前回コラムで紹介しましたカールツアイスから遅れる事3年、西暦1849年に設立

された顕微鏡制作所が源流。

それから時を経る事16年後の1865年に生産効率向上を図る為にその分野に詳しい

機械工であった『エルンスト・ライツ(1世)』が入社します。
(なんか貴族みたいな名前ですね。。)

その4年後にエルンスト・ライツが事業を継承し、自身の名前を社名とします
(ト〇タやホン〇的な感じ。。)

以降、顕微鏡や双眼鏡を始め乾板式カメラ製造を手掛けていくことになります。

さらに時は流れて1920年。

ライツ1世が亡くなり跡取りであったライツ2世の時代。

かの有名なオスカー・バルナック氏が設計した35mm判カメラの発売にあたり

ライツ(社)が手掛けたカメラ』という意味を込めてブランド名を

ライカ(LEICA)』とします
(以外とシンプルな名付け方ですこと。。)

それを皮切りとして時々の世界最高峰カメラを開発・販売をし、また各国で

産声を上げ始めていたカメラメーカーはこぞってライカを模倣。

名・実ともにカメラ製造において不動の地位を確立します。

特に1954年に登場したM型ライカの初号モデル『M3』は当時の技術の粋を

結集して造り挙げられた渾身の一作!

60年余り経った現在においても一級品の扱いを受けているのは周知の事実。

このモデルを見て国産メーカーが軒並みレンジファインダー機から撤退し一眼

レフ製造に傾倒していく様は有名な話ですね。


王者ライカとの世界初技術提携

1970年代に入り次にライカ(てかライツ)がもくろんだのが低コスト・高品質

これには様々な理由があるのですが、大きく2つの要因がありました
①ドイツ国内での急激な賃金上昇による生産コストの増大
②日本製の一眼レフカメラ台頭によるライカ製品の販売低下

そこで目を付けたのがなんとライバルとなりつつあった日本のカメラメーカー

当時の日本は労働賃金はまだまだ安く、それでいて勤勉な国民性が表すように

高度な生産技術と品質を携えていました。

非公式に様々なメーカーと話し合い、白羽の矢が当たったのが中堅のミノルタ。

何故にミノルタ?というは表立っては流れきませんでしたが、確かな技術力と

それに裏付けされた製品の出来、何よりもコストパフォーマンスの高さが理由

であたったと伝えられています。。

時に1971年3月。提携に向けた実務作業がスタートします。

が、ことはそう思っている程カンタンに進みません。。

取り決められた事は『設計はライツ。生産はミノルタ。

これこそが本当に高いハードルとなります。

設計図はドイツ式で、もちろんドイツ語。。
なにを示されているのかチンプンカンプン。。
(翻訳して解読みたいな作業が延々続きます。。(マジかぁぁ!))

さらに素材の日本産業規格(JIS)との整合。。
(工業製品ですから避けては通れません。。(汗))

百戦錬磨のミノルタ技術陣も何度も心が折れかけたに違いない。。
(いやおそらく折れたでしょう (苦笑))

それらの難題・難局をへて1972年5月に提携成立!
(えらいぞミノルタ!てか技術陣!!)

そして翌年の1973年11月に記念すべき技術提携1号機が発売されます。

与えられた名前は『CL (Compact LEICA)

名を体で表すようにそれまでのどのライカとも違う小型ボディは大きな脚光を

浴び発売までに3,000台を超える予約が入り大人気カメラとなります。

業務提携の果てに。。

発売前からいろいろな話題をさらったCLとはどんなカメラだったのでしょう。。

①ライカ初の露出計内蔵した『ライカM5』のダウンサイジングモデル

②シャッターはメカニカルで縦走り式を採用
③ファインダーは40(標準レンズ用)・50・90mm対応のシンプル構造
④背面カバー脱着式

⑤露出計スイッチは巻上レバーを予備角(5度)で対応
⑥日本国内向けはLEITZ minoltaのダブルネーム仕様で販売
 (海外向けはLEICA単独ネーム。。中身は全く同一のもの)
⑦価格は40mm付 95,000円(当時のライカブランドでは破格値)

ミノルタ製ながらライカを名乗ることが許されたCLですが早々に改良機の話が
持ち上がります

提案をしたのはミノルタ側と言われているその後継機については
・どうせなら28ミリから使えるファインダーにした方が良くなくない?
・もっとカンタンに撮影が出来るようにAE化をした方が良くなくない?
・もっとコストを下げれるはず。。

などの改良案を基にライツ社との協議が続きますが肝心のライツがあまり乗り
気ではない?!

それは1970年後半から表面化するライツ社の経営危機。。
(その後身売りのはめに)

そんな新製品開発に関わっている場合ではない状況でこの話は頓挫しかけます

しかしミノルタはあきらめません。。

それならばと単独での開発・生産を決め、1981年2月に後継モデルを発売します

それがいまでも多くのファンがいる『MINOLTA CLE』です

(ちなみにCLEは ”Compact LEICA Electronic”の略称だとか。。)

CL培われたノウハウとミノルタ技術陣のライカへの深い尊敬。

そしてできればライツ共に作りあげたかった無念さ。

これらがCLEには刻まれているように思います。。

もちろんCLがなければCLEの誕生はありえなかったはずですから。。

こうして単独での製造・販売に踏み切られたCLEはミノルタにとって記念すべき

製品となります。

当時産業界で多いに活用されたCIを基に、創業以来のロゴ『minolta』を刷新し

MINOLTA』とした1号機でもありました。
(その後延べ3万台を超える製造をされたCLEは1991年に生産終了されます)


最後に。。

70年当時まぎれもなく世界一であったライカがある意味プライドを捨てて提携に

踏み切った相手がその後80年代後半から時代の寵児となり世界一に上り詰める

ミノルタであったとは皮肉なものです。。

そして現代。

経営危機により何度も荒海に飲み込まれたライカはそれでも見事に生き残り、

脈々と続いている一方で、2000年代にコニカと合併を図ったミノルタはその後

カメラ事業を断念。ミノルタブランドのカメラは姿を消しました。

またもや歴史はわからないものですね。。

(了)

さて今回のコラムいかがでしたでしょうか?
ちなみにCL・CLEとも人気が高い機種だけに品薄なことが多いです m(_)m
この記事を読んで頂いてどうしてもCLが欲しくなっちゃったそちらの貴方!
カメラのナニワではWEBで商品検索が出来るようになってますのでちょこっと
覗いてみて下さいね。。

ナニワグループオンラインで検索

それでは次回もお楽しみに!

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