カメラ入門 ~カメラの歴史~

ピンホールカメラから、フィルム、デジタルカメラ誕生までカメラの歴史をご紹介

カメラ入門 ~カメラの歴史~

画家の御用達として、「カメラ・オブスキュラ」(ピンホールカメラ)誕生

「カメラ」の起源は古く紀元前まで遡ると言われ、「カメラ・オブスキュラ」がそれとされています。「カメラ・オブスキュラ」という言葉はラテン語で「暗い部屋」を意味していて、暗い部屋に小さな穴を開けてそこから入り込む部屋の外の風景を見る装置でした。今で言う「ピンホールカメラ」と原理は同じで、15世紀頃のフランスの「画家」達は「写生」を行うためにこの装置を小型化(といっても乳母車より大きい)して、正確に絵を描くための道具として持ち歩いていたといわれています。

その後「カメラ・オブスキュラ」は様々な改良がされ、16世紀には両凸レンズが付き、さらに17~18世紀には大小様々な装置が考案されました。この時に現在の一眼レフカメラにも通じる装置も考案されていましたが、「カメラ・オブスキュラ」はあくまで外景を写しこんで「見る」装置でしかありませんでした。しかし、フランス人の「ニエプス兄弟」はこの装置を使用して「像を固定」することを試みました。

銀塩写真法の誕生

1826年にフランスの化学者ニエプス兄弟は感光版に「ピッチ」や「アスファルト」を使用し自分の家から見える風景を撮影、世界で初めて画像を固定する事に成功しました。しかし当時は鮮明な画像は撮影できず、また露光時間に6~8時間も要しており、現在のカメラが何百分、何千分の一秒で 露光できる事を考えるとまだまだ未完成の領域だったといえます。

ニエプス兄弟はその後画家のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと研究を重ね「銀塩写真法」を発明します。「銀板」を用いたこのカメラは「ダゲレオタイプカメラ」と呼ばれ1839年にフランスのジルー社から世界初のカメラ「ジルー・ダゲレオタイプカメラ」が発売されました。

「ジルー・ダゲレオタイプカメラ」は木製の大きな箱型で、画面サイズは今で言うところの「八つ切り」サイズ、レンズの明るさは「F17」で露光時間は飛躍的に改善されましたがそれでも30分が必要でした。

ネガポジ法の誕生

1841年にイギリス人の科学者ウイリアム・ヘンリー・タルボットが1枚だけではなく焼き増しのできる「ネガ・ポジ法」を完成させました。この「ネガ・ポジ法」は紙ネガから陽画(陰画を感光紙に焼き付けた、明暗が実物どおりの写真)に焼き付ける方法で「カロタイプ」とも呼ばれ、露光時間は2~3分と大幅な短縮に成功しました。

1851年にはイギリス人の科学者「フレディック・スコット・アーチャー」がガラス板に「コロジオン」という塗料を塗布しこの感光膜が湿った状態で撮影する「湿板写真法」を発明しました。「湿板写真法」では露光時間は10秒以下にまで短縮されましたが連続撮影が難しい方法でした。

1871年にイギリスの医師「リチャード・リーチ・マドックス」が発明したのが「乾板」で、写真乳剤を塗布して乾燥させたガラス板を使用し、撮影者は感光膜を作る必要が無く生産された製品で撮影が出来るため写真の世界が大きく拡がりました。また、この頃から感度も向上し露光時間が短縮されカメラにシャッターが取り付けられるようになりました。

ロールフィルムの誕生

1888年になると現在のような「ロール」型のフイルムが登場し、アメリカのイーストマン社が「コダック」という名前のカメラを発明しました。セルロイドに感光乳剤を塗布した100枚撮りフィルムとカメラがセットになった「コダック」は評判となり社名も「イーストマン・コダック社」へと変更しました。

1912年にイーストマン・コダック社は蛇腹を引き出して撮影するカメラを発売、蛇腹を格納すればポケットに入る大きさだったので「ベスト・ポケット・コダック」と名づけられました。画面サイズは「6×45センチ」で、以降はこのサイズを「ベスト判」と呼ぶようになりました。

1925年にはドイツのライプチヒ見本市で画面サイズが「24×36ミリ」のバーフォレーション付きフィルムを使用した小型カメラが発売されました。ドイツ西部の「エルンスト・ライツ社」が開発したこの「ライカA型」カメラは、今もなお絶大な人気を持つ「ライカ(Leica)」の基礎となるカメラでした。1954年には「ライカM3」型が登場し、ライカはその人気を不動のものにしライカの全盛期を迎えたのでした。

二眼レフカメラの登場

「ライカA型」が発売された翌年の1926年にドイツで「ツァイス・イコン社」が誕生しました。カール・ツァイス財団の呼びかけに光学メーカー4社が合併して誕生したツァイス・イコン社は、 画面サイズ「6×9センチ」のロールフィルムを使用するスプリングカメラ(バネの力でカメラの上ブタが開き蛇腹が展開されるカメラ)を製造しました。1928年にドイツのフランケ&ハイデッケ社が画面サイズ6x6センチの二眼レフカメラ「ローライフレックス」を発売、二眼レフカメラの原点となっています。

一眼レフカメラの誕生

1950年に世界で初めてとなるペンタプリズム式「一眼レフ」カメラ、「コンタックスS」が発売されました。当時は「ライカM3」全盛の頃であると同時にドイツのカメラが全盛期を迎えている時代ではありましたが、その牙城を崩していったのが日本の一眼レフカメラで、ニコン(旧社名「日本光学」)の「F」で頂点を極めました。ここまでのカメラは「機械式カメラ」とも呼ばれ、スプリングなどで構成された「アナログ」な機構を持っていましたがカメラの進化と平行して様々な部分に電子機器が組み込まれるようになりました。

分かりやすい例をあげると、「MF(マニュアルフォーカス)カメラ」に対する「AF(オートフォーカス)カメラ」で、1977年に「コニカ」から世界で初めてオートフォーカスカメラが発売され、以降は「AFカメラ」が主流となっていきました。ただし、電子式カメラが世を席巻しだしても機械式カメラは電池を必要としない「機械式時計」のような存在感があり、また、機械に頼らず自分でピントを合わせる、といったところが愛好家に親しまれ新商品こそ開発されてはいませんが現在でも生き続けています。

デジタルカメラの誕生

フイルムに露光して画像を写し込む今までのカメラ(銀塩カメラ)に代わり、「CCD」という受光センサーで画像を記憶し写し込む方式の「デジタルカメラ」が1988年に登場しました。デジタルカメラは「フイルム」を使用しない代わりに「SDカード」や「コンパクトフラッシュ」といった「記憶媒体」を使用し画像を記憶させます。デジタルカメラで撮影した画像はその場で確認が出来て、なおかつ不要な画像は削除も可能なため、今までのフイルムのように結果的に不要な写真まで全部現像しなければならない、という消費者からすると不経済ともいえる出費をする事がなくなりました。また、デジタルカメラで撮影した画像はパソコンで取り扱うファイルとして保存できるため、電子メールで送信したり、自宅のプリンタでいつでも好きなときに印刷できたり、撮影した画像に画像処理を施して印刷したりと今までの写真には無い楽しみかたの拡がりを見せています。

自宅での印刷に関しても、当初はパソコンを介しての印刷が一般的でしたが、現在ではデジタルカメラのメディア(記憶媒体)を直接プリンターに挿入、またはデジタルカメラとプリンタをケーブル接続して印刷が出来るプリンタが一般的となっています。

ちなみに、フイルムを使用するカメラが全盛の時代は国内のプロ野球の試合などではスポーツ紙本社に向けてフイルムを送るバイク便を何台も待機させていた事がありましたが、現在はデジタルカメラで撮影した画像ファイルをインターネット経由で送るため競技場でバイク便部隊は見られなくなりました。

日本のカメラ

1841年にオランダ船によって日本にもたらされた「ダゲレオタイプ」カメラは、島津藩の御用商人で学者でもある「上野 俊之丞(うえの しゅんのじょう)」が購入して島津藩主であった「島津 斉彬(しまづ‐なりあきら)」に献上し、その「島津 斉彬」をモデルにした日本で初めてとなるカメラ撮影に使用されました。この時の銀板写真が日本初の写真となっていて撮影日といわれる「6月1日」は現在でも「写真の日」とされ各種写真行事などが行われています。が、その後の調査で実際にはもう少し後で撮影されていた事が確認されています。

長崎に日本で初となる「写真館」を1862年に開業した「上野 俊之丞」の子である「上野 彦馬(うえの ひこま)」は日本における写真創始者の一人で、「高杉晋作」「坂本龍馬」などの明治維新の幕末有名人の肖像写真を撮影したことでも有名です。

アメリカでロール方フィルムを使用したイーストマン社の「コダック」が評判になっていた1880年頃の日本では、いまだ安定性のある乾板写真が主流で、のちの「コニカ」である東京日本橋の「小西本店(こにしほんてん)」が数々の乾板用カメラを作り出しました。1902年に「小西本店」は東京豊多摩郡淀橋町に乾板国産化のための研究所兼工場を設立、主として外国製品を輸入販売していた「小西本店」とは別の工場部門として「六桜社(ろくおうしゃ)」を設立し写真用品の国産化に着手し、1925年にイーストマン社の「ベストオブコダック」を模したベスト判カメラの「パーレット」を発売します。

1950年代に入ると日本では、当時カメラとして優れていましたが非常に高価であった「フランケ&ハイデッケ社(ドイツ)」の二眼レフカメラ「ローライフレックス」(ちなみに当時はラーメンが30円程度で食べられる時代で約9万円ほどでした。)に対抗し、その20分の1程度の低価格二眼レフカメラを製造販売し「二眼レフブーム」にまでなりました。

また、1950年代後半になると戦前「帝国海軍」の光学系製品を製造していた「日本光学(のちのニコン)」は、現在でも高い評価を得ている一眼レフカメラの名機「F」を開発し、全盛期を迎えていたドイツカメラの牙城を崩すと共に世界に日本のカメラメーカーの存在を知らしめる事になり、現在のデジタルカメラに至るまでカメラ文化を牽引しつづけています